史跡新府城跡

2013年3月25日

 

■新府城跡

 

新府城跡航空写真

       

新府城跡航空写真

 新府城は、天正9年(1581)に武田勝頼によって築城されました。城は未完成でしたが、同年の9月頃には友好諸国に築城が報じられ、12月24日に躑躅ケ崎館(武田氏館跡 山梨県甲府市)からの移転が行われました。しかし、天正10年3月3日、勝頼は織田軍侵攻を目前にして自ら城に火を放ち退去し、3月11日に田野(山梨県甲州市大和町)において、夫人と息子信勝ともに自害し、武田氏は滅亡してしまいます。

 その後、同年に徳川氏と北条氏による甲斐国争奪をめぐる天正壬午の戦いがおこり、徳川家康は新府城を本陣として再利用しました。

  新府城が立地する七里岩は、八ヶ岳の山体崩壊にともなう岩屑流が、西と東側を流れる釜無川と塩川の侵食によって形成された台地で、西側の断崖絶壁は韮崎から長野県の蔦木(諏訪郡富士見町)まで約30キロメートル続き、奇観を呈しています。

 台地上には、100を超す「流れ山」と呼ばれる小高い丘・小山があり、新府城は七里岩台地南端の標高約524メートルの「西ノ森」と呼ばれた小山に築かれ、西側は釜無川をのぞむ急崖となっています。

  城は土の切り盛りによって造成が行われ、山頂の本丸を中心に、西に二の丸、南に西三の丸・東三の丸の大きな郭が配され、北から東にかけての山裾には堀と土塁で防御された帯郭がめぐり、南端には大手桝形・丸馬出・三日月堀、北西端には搦手があり、全山にわたって諸施設が配置されています。

 搦手の郭は東西100メートル、南北25メートルの東西方向に細長い長方形をしており、北側には水堀と土塁、東から南側にかけては空堀、西側は比高差90メートル程の七里岩の断崖となっています。

 城の北西隅につくられている乾門は、西側が七里岩の崖、東側が水堀でこの間を土橋でわたる構造で、大手と同様に内側が大きく、外側が小さい土塁によって囲まれたやや変則的な形の桝形虎口で、桝形内部空間は東西約13メートル、南北約12メートルの広さがあり、外側門(一の門)は北西角、内側門(二の門)は南東隅寄りに設けられています。


■史跡の概要

指定年月日

昭和48年7月21日

史跡所在地

山梨県韮崎市中田町中条字城山ほか ( 周辺の地図

史跡面積

指定面積 257721.1平方メートル

史跡の概要

時代

天正9年(1581)~天正10年(1582)

種別

城郭

遺構

本丸・二の丸・三の丸・大手桝形・丸馬出・三日月堀・搦手桝形・帯郭・土塁・堀等

遺物

陶磁器・カワラケ・古銭・鉄砲玉・鉄釘・砥石・茶臼・鉄鍋・内耳土器ほか

その他

土師器片・縄文土器片 ほか

管理団体

韮崎市  管理団体指定年月日 昭和61年4月30日


■新府城跡の発掘調査

発掘調査

時期 平成10年~18年度

内容 当初4ヵ年で試掘及び確認調査を行、以後面的な調査を実施中。                                        

 ・平成10年度 西三の丸において、試掘調査 

礎石・小穴・集石・虎口門跡等の遺構確認。カワラケ・鉄釘・陶磁器・砥石等出土

 ・平成11年度 東三の丸・二の丸において、試掘調査

小穴・集石・虎口門跡等の遺構確認。カワラケ・鉄釘・陶磁器・砥石・石臼等出土

 ・平成12年度 大手・東側桝形状遺構・搦手の試掘調査

集石・柱穴のほか搦手からは焼け落ちた門跡検出。

陶磁器・内耳土器・鉄釘・炭化材等出土。

 ・平成13年度 本丸において試掘調査。  

石築地・石積み・敷石・礎石・柱穴等の遺構発見。焼土層確認。 青磁・白磁・陶器・鉄製品・茶臼等出土。

 ・平成14年度 搦手から本調査開始

搦手内郭において、通路部分と思われる硬化面検出、土塁・郭・土橋・堀の造成状況確認。

 ・平成15年度 搦手内郭において発掘調査

平坦面の造成状況確認。木橋想定箇所の橋台部分において、強度を保つための版築状造成痕跡を検出。

 ・平成16年度 搦手内郭・井戸・帯郭の発掘調査

木橋想定部分下の堀において、西側橋台部の中段に橋脚を受ける小段を検出。

井戸は擂鉢状にローム土層を掘削して構築されていた。帯郭では平坦面と土塁の造成状況を確認。

 ・平成17年度 搦手桝形虎口・帯郭の発掘調査

搦手桝形の内側虎口部分において、門の礎石を検出。天正10年3月3日炎上の痕跡と推定される炭化材・鉄釘・焼土等が出土。帯郭では切岸の崩落部分下で郭遺構を確認。

 ・平成18年度 搦手桝形の土塁・堀北側の調査

搦手桝形の内側土塁部分において、土塁の立ち上がりを確認。天端部分では柵列等の痕跡は確認されなかった。内側門の礎石に取り付く土塁が、両側に土を盛って中を版築状に築いた構造であること(土塁による塀)が判明。堀北側のトレンチ調査では、石を集め敷き並べた暗渠排水施設が発見され、また、土地を区画するような石積み遺構を確認。

  乾門炭化材出土状況

 

      乾門炭化材出土状況

       乾門礎石

           乾門の礎石


■整備の概要

  

             整備鳥瞰イメージ図                

            整備鳥瞰イメージ図

  井戸跡整備状況

  

        井戸跡整備状況

(1)保存整備に至る経緯

 昭和61年4月30日に韮崎市は、史跡新府城跡の管理団体となり、それを受けて、昭和63年度より史跡指定地内の公有化を実施し、平成10年度までに対象地の約95パーセントを公有化しました。これによって公の土地は史跡全体の96パーセントとなり、保存整備を推進することとなりました。

 平成10年度に文化庁の環境整備事業の採択を受け、当該年度から史跡内の発掘調査を開始しました。調査は遺構の保存状態を把握し、その成果を史跡整備に活かすものであり、また、韮崎市教育委員会では、平成8年に史跡新府城跡保存整備委員会を設置し、よりよい史跡の整備と保護活用をめざし、議論を重ねてきました。

 平成13年度までの遺構確認調査、平成14年度からの本調査を含め、保存整備基本構想、保存整備基本計画、保存整備基本設計を策定し、平成16年度には実施設計を行い、平成17年度より一般整備に着手しました。

(2)基本方針とこれまでの事業の経過

○ 基本方針

 新府城は天正9年(1581)、武田領国の首都の中心として築かれましたが、翌天正10年(1582)に武田氏は勝頼の自刃によって滅亡し、武田氏最後の居城となりました。しかし、武田領国の中心・政庁として築かれた本城は、戦国時代末期の様子を現代に伝える貴重な文化遺産となっています。このような新府城跡の史跡整備は、周辺環境や景観を含め、よりよい史跡の保存・活用⇒保護を目指し、また生涯学習実践の場・拠点として活用することを目標としております。 

○ 目的

  城郭としての特徴や現況を生かした、わかりやすい史跡とする

  城跡内の自然を生かし、多面的で魅力のある史跡とする

  新府城跡を核とし、史跡や地域資源を生かした「武田の里」を形成する

  市民主体の生涯学習実践の場として史跡を活用する

○ 土地公有化

土地公有化

時期 昭和63年~平成10年

公有化済面積  178978.25平方メートル 

       (対象面積の95パーセント・史跡全体の70パーセント)

対象面積     187605.25平方メートル

○ 整備計画等

整備計画等

時期 平成13年~18年度 

内容 ○史跡新府城跡保存管理計画策定(昭和62年度)    

    1.史跡新府城跡保存整備基本構想策定(平成13~14年度)

    2.史跡新府城跡保存整備基本計画策定(平成15年度)

    3.史跡新府城跡保存整備基本・実施設計(平成16年度)

    4.史跡新府城跡基本設計(建物復元部分 平成17年度) 

    ※平成18年度以降は実施設計と整備を併行

○ 整備工事

整備工事

時期 第1期平成17年度~25年度(予定)

平成17年度  帯郭樹間伐採工・搦手郭土塁修景工事・井戸跡植栽整備工事

平成18年度  搦手桝形土塁修景工事・水堀跡樹間伐採工・水堀跡植栽工事等


■新府城跡散歩マップ

新府城跡散歩マップ

 

 

このページに関する
お問い合わせ
教育課  生涯学習担当    内線(269)