韮崎市ってどんなところ?と説明する際、必ずと言って良いほど「武田の里」という言葉を使います。山梨県全体が武田氏に関する史跡が多い中、何故、韮崎市が「武田の里」を使うのか?今回はそんな視点から韮崎市にある武田氏に関する史跡をいくつか紹介していきます。
| 韮崎市の神山町というところに武田(たけた)という地名があります。ここに館を構えたのが甲斐源氏・源清光の子、信義でした。この信義公、源平合戦の「富士川の戦い」で有名な人なのです。以後、信義は武田と姓を改め、ここに甲斐武田氏が始まったそうです。実は、韮崎市は武田信玄公よりずっと前の甲斐武田氏の始祖、武田信義公と深い関わりのあるところなのです。 |
 |
 |
上の写真は神山町北宮地にある武田八幡宮の写真です。たまたま、ここに来た観光客の方から「本殿の屋根にある鬼面が素晴らしいですね。」と話したのを思い出して撮りに行きました。八幡宮に関しては詳しくはこのHP内で説明していますので コチラをお読みください。その他にも神山町には 『武田信義公館跡』や信義公の菩提寺の 『願成寺』、要害城であった 『白山城』などが有ります。 |
武田八幡宮に関するHP内の説明でも書いていますが。この武田八幡宮は、よく甲府の武田神社と間違われます。武田神社は躑躅ヶ崎の館跡が神社になったもので武田氏が崇拝したのは韮崎にある武田八幡宮です。上の写真は武田勝頼夫人が新府落城の数日前に武田八幡宮に必勝を祈願した祈願文です。しかし、祈りはとどかず武田家は滅びてしまいす。この時、夫人は19歳だったそうです。 |
 |
|
さて、韮崎市神山町は武田信義公が館を構えた事もあり、当時の史跡が数多くあり、また現在はのどかな田園地帯ですのでハイキングや散歩をするには最高のところです。ここでちょっとばかり寄り道を・・・上の写真は近年有名になった 『わに塚のサクラ』です。春には沢山の人で賑わいます。左の写真は武田八幡宮の近くにある「為朝神社」にある為朝像です。何でも、伊豆大島に流された後、密かに武田為朝と名乗り武田信義公のところに身を寄せていた。という言い伝えがあるとか・・・何にせよ神山町は非常に見どころのある素敵な場所ですよ。 |
| 次に紹介するのは『新府城跡』です。今でこそ『新府桃源郷』といって山梨県でも最北端の桃の産地として有名ですが、その昔、ここには在城わずか68日という悲劇の城、新府中韮崎城があった場所なのです。戦国時代、武田信玄の後を継いだ武田勝頼がここ、韮崎に一大城下町を築こうと甲府から遷都しましたが時すでに遅く武田家は滅亡の道を歩みます。 |
 |
 |
勝頼公はその当時の領土である甲斐、信濃、駿府、上野の丁度、中心となる場所の韮崎に居を構えたといわれています。山梨県内では信玄公の人気の高さに愚息のレッテルを貼られている勝頼公ですが韮崎にお城を移したのは未来への領土経営を見越した展望を踏まえての事でした。左の写真は新府城跡にある武田勝頼公霊社です。 |
戦国の雄、武田家の最後の居城となった新府城とはいったいどんなお城だったのでしょうか?築城技術に優れた武田氏の集大成ともいえるこのお城、この謎を解明するために新府城跡では今でも発掘作業が続けられています。右の写真は12月に開かれた新府城跡発掘調査見学会の写真です。築城から廃城までわずか1年程の短期間しか存在しなかった新府城、それゆえに手も加えられずにその当時のまま現在に残っています。今後の発見に注目ですね。 |
 |
 |
武田氏以外にも韮崎には武田家に仕えた人たちの史跡がいくつかあります。その一つが韮崎市旭町を周辺とした甘利郷を拠点とした甘利氏。大河ドラマ「風林火山」でも物語の前半を板垣信方と共に引っ張って行きましたね。その甘利虎泰は韮崎に館がありました。いま館跡には 『大輪寺』というお寺があります。また、毎年4月に甲府で行われる「信玄公まつり」では韮崎市は甘利隊として出陣しています。 |
その他にも韮崎市穴山町には武田家の親戚衆である穴山氏の菩提寺 『満福寺』や円野町の 『宗泉院』には山本勘助の供養塔。藤井町には勝頼の時代、人質として韮崎にいた木曽義昌の母子のお墓のある 『光明寺』などがあります。右の写真は韮崎市の市民まつり 『武田勝頼公新府入城まつり』の写真です。昨年の勝頼公役には武田家の末裔である武田英信さんに扮していただきました。 |
 |
 |
韮崎市に館を構えたことから始まった甲斐武田氏の歴史、その後、時代は流れ、数奇な運命を辿り武田氏が最後に館を構えたのもまた韮崎市でした。韮崎市が「武田の里」と言われる所以がなんとなくでも良いのでお分かりになって頂けましたでしょうか?左の写真は新府城跡の高台で撮った現在の新府(韮崎市中田町)です。勝頼公がかつてこの地に城下町を築こうとした場所は今は美しい桃源郷となり毎年多くの観光客で賑わっています。 |