武田の里・サッカーのまち

更新日:2020年04月02日

 韮崎市のキャッチフレーズ、「武田の里・サッカーのまち にらさき」の由来について… 

武田の里

 清和天皇の流れを汲む新羅三郎源義光以前の三代は、甲斐守(国司)を務め、任期が明けるとこの地を去りましたが、その子義清は甲斐(現市川三郷町)に土着し、甲斐源氏の始祖となります。その孫にあたるのが信義。彼は韮崎の武田ノ庄を与えられ、武田の姓を名乗り、強大な勢力を誇りました。以来、韮崎は甲斐武田家の故郷になりました。
 この信義公から数えて16代目の当主となったのが武田信玄公であり、戦国の世に甲斐地方の覇者として君臨しましたが、天下統一の夢かなわず、その生涯を閉じました。信玄公の遺志を継ぎ、天下統一のため努力した勝頼公もまた、長篠の戦いで織田・徳川軍に大敗を喫し、甲斐国侵攻に備え新府築城を決意。しかし、入城3か月足らず1582年3月3日に自ら城に火を放ち、天目山景徳院で自害、ここに武田家は終焉を迎えました。以上が、韮崎市が武田家発祥の地・終焉の地といわれる所以です。
 本市には、武田家の氏神「武田八幡宮」、信義公の菩提寺である「願成寺」、また、信玄公の治水遺構といわれる「将棋頭」、悲運の城「新府城跡」など、武田家ゆかりの史跡・文化財が数多く点在しており、いまも彼らの野望とロマンを秘めています。

サッカーのまち

 大正12年、韮崎中(現韮崎高校)の初代校長であった堀内文吉氏が「八ヶ岳おろしの吹きすさぶ中では、テニスや水泳は無理だ。蹴球が一番適している。」と蹴球を校技にし、昭和2年に赴任した岩崎鋭市郎氏に、監督就任を命じたのがサッカーの名門韮崎高校の始まりといわれています。このころのサッカーは、ボールを蹴るより相手選手の足を蹴ることも大事な戦術?のひとつといわれるほど、試合中に選手同士が殴りあうのも珍しくないものだったようです。
 その後、指導者や選手の努力により出場した各種大会で優勝を果たし、山梨県の代表として関東・全国の大会に出場、全国に「山梨に韮高あり」と名を轟かせるようになりました。昭和50年8月、全国高校総合体育大会(インターハイ)が東京・埼玉・茨城・山梨の一都三県で開催されるにあたり、「韮高サッカーの長い歴史と戦歴が全国的に知られ、とにかくサッカーは韮崎、こういう「サッカーのまち」でやるならば、必ず成功するだろう」という、全国の関係者の強い希望があって韮崎市開催が決定されました。
 こうした経過を踏まえ「サッカーのまちにらさき」が誕生しました。大正~昭和初期から続く本市のサッカーの伝統は、八ヶ岳から吹き付ける強風「八ヶ岳おろし」という風土と本市に生きる人々の努力と精神が結びつき、今日まで育まれてきたものです。

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